数年前のカナダの私、なにをしていたかというと…
パソコンのタッチパネル(カーソル動かすところ)が動かなくなって自暴自棄になっていました。
数年前からすでに非生産的な日々を送っていた模様です。 少し悲しくなりました。
が、きちんと語学学校での様子も書かれていましたよ。 安心してください、今日はそんな語学学校の他の生徒と、アジア人である自分を比べたお話を書こうかと思います。 タッチパネルの話はしません。
私は当時、語学学校の一般英語クラスに在籍していました。最初の数か月はIELTSのクラスだったんですが、それはまた別の機会にでも書きます。 IELTSをずっと勉強していると、スコアとの触れ合いではなく人的な触れ合いが欲しくなってくるんです。 なので、一般クラスを取ることにしました。
ほぼどこの語学学校でもそうですが、専門コースを取らない限りは、コアクラスはGeneral Englishというクラスに入ります。 General Englishは、リスニング、リーディング、ライティング、スピーキングと、基本的にどのスキルもカバーされる授業構成になっています。
当時、その学校のレベルとして一番上のクラスUpperに在籍していました。 一般に、Lower(下)からIntermediate(中)には日本人や韓国人、中東系などのアジア人が多く、それ以上になるとヨーロッパ人や南米系の学生が多くなる傾向にあります。 私の入ったばかりから1ヶ月ほどは、アジア人は韓国人の女の子が一人しかいませんでした。 あとはヨーロッパと南米の学生で、全員で10人くらいのクラスです。
Upperになると、意思疎通は難なくこなすことができます。日常会話は基本的に問題がないレベルです。 なので、そのクラスではディベートやプレゼンが中心に行われ、英語を「実践」として使っていくことに重点が置かれていました。
私がそのクラスに入って一番驚いたことは、大多数の南米人とヨーロッパ人学生が プレゼンの準備ほぼゼロ で檀上発表を行うところでした。 彼らはもちろんトピックだけは用意しています。 でもメモもなにもなしで
ぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺら
としゃべるんですね。 びっくりしました。
前日に最低でも1時間は準備してからプレゼンに臨む私からしてみれば、 「彼らは語学学校に通う必要などないではないか!!!」 というくらいに見えました。
トピックも、アメリカとシリアの抗戦についてや、ジャーナリズムについて、恋における生物的メカニズムについてなど、難しいんですよね。 ちなみに私が発表したプレゼンは「スヌーピーについて」でした。 バカ丸出しですね。
彼らとの差を見せつけられたのは、プレゼンでだけでなく、ディベートでもです。 むしろこちらのほうが彼らの本領を発揮します。 もはや口論です。 とても私が口を挟める隙はありませんでした。 韓国人の女の子も黙っていました。
もちろんテーマに対して、思いはあります。伝えたいことも、みんなが見逃しているだろう問題点も、言いたいことはあったんですが、それを瞬間的に出す英語能力がなかったんですね。 そしてなにより英語に対しての自信もなかったんだと思います。
先生が見かねて「Yukikoはなにか意見ないの?」と聞いてくれて、そんなときはクラスメイト達はしっかり耳をすまして意見を聞いてくれました。 だから、「のけ者にされている」とかそういうのではないんです。 みんなも聞いてくれようとしてるんですけどね。
南米系、またスペイン、フランス、イタリアなどのラテン民族と、ドイツなどのゲルマン民族は、英語を習得する上で間違いなくアドバンテージを持っています。 英語の起源になっている言語がラテン、ゲルマン語だからです。 英語はほかの言語の影響も受けていますが、この2言語の果たす役割はかなり大きいと言えます。 現在のスペイン語やポルトガル語、フランス語、ドイツ語と英語を比べると、その文法だけでなく、単語でも読み方が微妙に違うだけ、スペルが微妙に違うだけ、という単語は多くみられます。
それぞれの母国語の持つ言語的背景から、英語の習得速度がアジア人とまるで違って当たり前なんです。 同じレベルスタートのアジア人と彼らの3ヶ月通学後の行きつくレベルはまったく異なるのにも合点がいきますよね。 一説によるとアジア人の習得速度の4倍の速さで吸収するそうですよ。
ちょっと難しい話になりましたが、もともとの母国語の派生の仕方からそういう違いがあるんですねー。 私もそりゃスヌーピーの話しちゃいますよ。
また、義務教育での英語学習もスピーキングなどコミュニケーション能力を重視したプログラムがつくられているそうです。 プレゼンやディベートでここまで大きく差が出る理由の一つでもあるでしょうね。
そんな差があることくらい知っていましたが、やっぱりこのときはかなりへこんでいました。 ちょっと日常会話ができるようになって、調子に乗っていた心がポキっと折れた音も聞きました。 いつまでたってもこんな風にはなれないんじゃないか、そう思うこともありました。
ある日、担任の先生に相談しました。 「クラスのみんなのスピーキング力に圧倒されて、自分の英語が恥ずかしいと思ってしまいます。言いたいことはたくさんあるのに、言えないことがもどかしいんです」と。
すると先生は言いました。 「速くたくさんしゃべることが英語のすべてではないの。気づかないかもしれないけど、ああやってペラペラにうまくしゃべってるように見える子たちの文法は、多くが崩れていて、正確とは言えないし、中には自分の母国語の単語を当てずっぽうで入れている子もいるのよ。それに比べて、あなたたち日本人の文法はとても正確だわ。接続詞の使い方もきちんとしている分、整頓された論述よ。」 と。 全然気づきませんでした。
また 「訛りの強い英語で速く話されてもね、それって独りよがりだわ。ゆっくりでも伝わる英語を話すことに意味があるし、伝えようとする気遣いが必要なの。私は総合的に見て、アジア人の子たちがほかのクラスメイトに劣っているなんて思ったことないのよ。自信を持って!」 と言われました。
なんだか感動しました。 ひたすらに言語的背景を恨んでいた私でしたが、そこには一長一短あるということを初めて知りました。 もちろん彼らの方が習得速度においては有利ですが、それを恨んでいてもどーしようもないですしね。
「客観的に自分の英語を見て、”伝わっているのか”を意識する」。 英語を勉強するうえで、とても大事なことを学んだ気がしました。
そして先生は、アジア人の子が国民性の違いから、公の場で強く発言が出来ないことを知っているのに、うまく発言のチャンスを与えられなくて申し訳ないとも言っていました。 でもそれは結局、自信の問題ですよね。 ”伝わる”自信があればそんなのはきっと飛び越えられる問題なはずです。 先生のせいではないですし、そんな社会は甘くないですからね!
それからは、純粋に授業を楽しめるようになりました。 クラスの平均年齢が比較的高く、ジャーナリストが2人もいたり、生物の先生がいたりと話題が刺激的なものばかりでした。 私も自信をもってからは、「江戸幕府の崩壊と明治維新」についてのプレゼンをするなど、スヌーピーから大飛躍しました。
これは私にとってこのクラスでの最終週に撮ったものです。このころには少しアジア人が増えてましたね。
語学学校で勉強していると、こんな風に人と比べて悔しい思いをすることもあります。 でもやっぱりみんな「なにかが足りない、でもないものを持っている」っていうだけなのかもしれません。 自分も誰かにとっては「ないものを持っている」人なんでしょう、きっと。 これは英語だけじゃなくて、人間性や国民性にも言えることですよねー。
語学学校は刺激的でとても楽しいです。 英語に一生懸命になればなるほど、楽しくなる場所です。
また詳しく各学校の紹介でもしていけたらなーと思います。
そんな物思いにふけっていた、私の数年前のお話でした~
今日も長かったですね。 すんません。(´・ω・`)